2016年04月10日

変わりたくないという執着を手放す 慈悲の冥想

ブッダと同時代に転生していたことのある(らしい)私は、
ブッダが発したとされる言葉に、たいへん心惹かれます。

(大乗仏教ではない)上座仏教には、
ブッダが生きた時代から受け継がれている
パーリ語の経典があり、
今、私たちは、幸運なことに、
日本語に訳されたものを読むことが出来ます。

先日、テーラワーダ上座仏教の
スマナサーラ長老のお話を
お聴きする機会がありました。

その中で印象に残ったのは、
執着を手放すこと。

たとえ話として挙げられたのは、
とても身近な例ですが、
上司に叱責されて落ち込んでしまった
会社員のエピソードです。

なぜ彼は落ち込んでしまったのでしょうか?

上司に叱られる以前の、
何事もなく平和な状態であった自分に対して、
執着をしているため…というのがその答えです。

人間は、いつでも変わらず
同じ状態でありたいと願い、
時にはそうあるべきだとさえ思っています。

そして、少しでもそれと一致しない事が起こると、
怒りや悲しみ、恨み、苦しみなどに
襲われ、とらわれてしまうのです。

ブッダの教えは、「諸行無常」です。

同じところに留まるものは無く、
同じ状態は続くものではない…

これを受け入れるのは、
なんと難しいことでしょうか?

癒しについても、
同じことが言えそうです。

私たちは、心身を癒したいと望みながらも、
心のどこかでは、
変わりたくないという思いを
持っているのかもしれません。

全ては移り変わり流れゆくものだと
本当に受け入れることが出来たならば、
どれほど気持ちが楽になれるでしょうか?

たとえば、時が流れつつあることは、
どんな人でも普通に受け入れられると思います。

加齢とともに、足腰が弱くなり、
視力や聴力が低下し、歯が抜け落ち、
物忘れが激しくなるのは、
一般的には受け入れ難く、
もの悲しいものです。

けれどもこれさえも受け入れることが出来たならば、
老いにまつわる不安が一掃されるでしょう。

また、ある時点で、自分にとって、
たしかに真実だと思ったことが、
時間の経過とともに、
もはや真実ではないものとなっていく…

それは恐ろしい気付きであるかもしれませんし、
喜ばしい発見となるかもしれません。

そうなったならば、
頑固にしがみつくことなく、
軽やかに手放していきたいものです。

一度、決めたことはやり遂げる…
そう心に決めていても、
人は日々、変容し、進化し、成長していきます。

相手も、世界も、同様です。

その時点で、本当にそのことが必要なことなのか?
魂が望んでいることなのかを問いかけて、
正直に答えを見つめ、受け入れていかれたらよいですね。

余談ですが、
壇上のスマナサーラ長老は、
まぶしいほどの光に包まれて
輝く紫のオーラがあまりにも見事で、
目を奪われてしまいました。

とはいえ、そのお話振りは、
たいへんロジカルで知的、ユーモラス、
カリスマ然としたところは全くありません。

ご存じない方のために、
テーラワーダの「慈悲の冥想」を
ご紹介したいと思います。

最初に
「私は幸せでありますように…」
と自分の幸せを願い、

次に
「私の親しい人たちが幸せでありますように…」
と願います。

次は
「生きとし生けるものが幸せでありますように…」
です。

ここまでは、多くの方々に、
抵抗なく実践していただけるのではないかと思います。

ここから少し難しくなります。

なんと「私の嫌いな人々も幸せでありますように…」と続き、

おしまいに「私を嫌っている人々も幸せでありますように…」
と願うのです。

いかがでしょうか?

心の中でもやもやしながら、
無理をして願うのでは意味がありません。

もしも今は難しいのなら、
それはそれとして…

いつの日か、心の底から
おしまいまで願うことが出来るようになったら、
唱えてみましょう。

詳細については、
日本テーラワーダ仏教協会HP
をご覧ください。

魂の癒し 叡智 愛 無限




posted by lotusblue at 17:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 癒しと進化